うまくいかないからだとこころ

AI/IoT時代の健康と医療

2019.11.15
「ポスト安心希求社会」での個人と社会のあり方【後編】:「知る」ことによって変容する自分をどう遣り繰りするか?
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私たちがやっている「“内省と対話によって変容する自己”に関するヘルスケアからの提案」というプロジェクトは、「現在の病院」という場が「近未来の一般社会」という場を予測するモデル社会であるという仮説を前提として進めてきました。そのモデル社会の中で、「患者」として登場する主人公が体験する「自分について自分の知らない事柄を他者から吸い上げられ、自分の意図しないところで分析される」ということ、その上で「情報化された自分と、厄介な自分の将来について知る」ということがその人に何をもたらすのか、さらには、知ってしまった後戻りできない自分と他者との関係性の変化、さらには自分が作ってきた自分の物語が「医学の物語」に書き換えられていく様について記述を行ってきました。そして、これらの様相は近未来社会の中で生きる個人が、生活におけるあらゆる場面において直面することだろうというのが私の考えていることです。

この【後編】では、以上のような環境の中での主体としての人のあり方、考え方、ふるまい方などについて考察を行います。哲学的なことも、具体的な方法論も提示することはできないかもしれませんが、できる範囲で進めていきたいと思います。

研究ノート:情報化される個人の現在と未来【前編】―不確実性とともに個人を「診断」し、個人の未来を『予言』すること」で提示した事例に戻ってみましょう。事例は以下のようなものでした。

“会社経営をしていたが昨年リタイヤした囲碁好きの喫煙習慣のある60代男性。血圧が気になり病院を受診したところ様々な検査が行われ、その結果「高血圧」「動脈硬化症」「慢性腎臓病」「高コレステロール血症」と診断された。外来担当医からは「大変危険な状態で、このままでは脳梗塞や心筋梗塞になってしまう。すぐに治療を始めないといけない」と言われた。それらを知り、今までの自分が「怠惰な生活をしていたツケが回ってきた」と自覚し始めた。その後彼の生活は大きく変化した。”

上記の事例において、この60代の男性は前回記事で紹介した「知恵の樹の実システム」を起動させていくわけですが、強いドミナント価値を伴ってインプットされるテキスト、さらには自分自身の厄介な未来に関するテキストを受け取るとき、変な入り口からそのテキストが「情報」として入り込んできてしまいます。さらには、以上の言葉はこの男性に対して何らかの決断(例えば、予防のための薬を飲み始めるとともに、医療機関への継続受診を開始するかどうかという決断、あるいは、喫煙習慣を終わらせるかどうかについての決断)を強いているのですが、「知恵の樹の実システム」の回路は決断を前にして必然的に葛藤を発生させていきます。そして、葛藤は個人に苦痛を少なからず与えます。特に、自分自身に対して厄介な未来に関する決断を行ううえでの葛藤は大きな苦痛を伴います。この苦痛を避けたいという欲求は誰にもあります。

そして、その苦痛を避けるためのパスとして提示されるのが、専門家から提示される「このままでは大変なことになるから、私があつらえたこのレールに乗りなさい」という“呪文”です。この呪いの呪文に完全に身をゆだねてしまうと、人は考えることを停止したままとなってしまいます。しかしながら、苦痛が続く状態というのも避けたいと感じるのは当然でしょう。本稿では、ヘルスケアに関連する「厄介な未来」を知ったのちに決断を強いられるような状況を想定した上で、個人が決断の場に立ち現れる葛藤と不安をどのように遣り繰りするかについて考察します。

葛藤の手法

私は、病院というドミナント価値を伴った情報が飛び交う場において、決断の主体者(主に患者)が自らの主体性を放棄し思考することを止めてしまう主な理由として、ちゃんと葛藤し、ちゃんと不安になることができない環境がそこにあるからだと考えています。そのような環境においても、個人が思考と自己変容を続けていくためには、ある程度明示された「葛藤の仕方」あるいは「不安の遣り繰りの方法」というものが必要なのかもしれません。

まずは「葛藤の手法」というものがあるとすればどのようなものかということについて考えてみたいと思います。葛藤とは、ある選択を行ううえで異なる価値が衝突している状態であるとみなすことができます。どうしてそこで異なる価値が衝突しだすのかと言えば、あるテキストを得て「知る」という体験をした人は、そのテキストに今までとは異なる「価値」を見出しているからです。ただし、そこで見出された「価値」は「知恵の樹の実」システムの通常の回路 ――すなわち、理解→認識を得てたどりついた価値――から生み出された価値かどうかについてはやや疑わしいかもしれません。だとすれば、葛藤状態にある際に行うべきことは、自分の中に生まれた新たな価値について少し視点を離して見つめてみるという方法がよいかもしれません。より具体的に言うのであれば、一度視覚化できるテキストに価値を明示化した上で批判的吟味を試行するということです。 例えば、以下のような方法を提案したいと思います。

方法1.新たに生まれた価値を「理解・認識」と「規範・価値観」でサンドイッチする

自分の中に生まれた新しい価値は、「知る」という行為によって自分の中に発生した「理解・認識」ともちろん関連していると同時に、自分の中にもともと存在していた「規範・価値観」とも深く関連しているはずです。だとすれば、ある決断を行う状況で立ち現れた「価値」は、自分が置かれている状況に関する理解や認識とつながっているはずですし、もともと自分が大切にしていることや我慢ならないこと等ともつながっているはずです。明示化された「価値」が、「知恵の樹の実システム」の順方向からも逆方向からも自然な流れとしてたどり着くかということについて自問してみる、という方法です。

スライド1

図1.新たに生まれた価値を「理解・認識」と「規範・価値観」でサンドイッチする

方法2.葛藤の対象となる選択について、両方の選択肢を「こちらを選択する。なぜなら・・」という言葉で表し、その「なぜなら」の「しっくり度」を確かめる

これも「方法1」に似た手法ですが、より直感に訴える手法かもしれません。葛藤の元となっている選択肢について、それぞれの選択肢を選んだあといったんシミュレーションし、その上で「なぜなら・・」という言葉を続けていきます。そして、その「なぜなら」以降の言葉が、自分の気持ちにしっくりくるものかどうかについて自問する、という葛藤方法です。これは、自分自身の中にあるけれどもなかなか言語化しにくい価値観や規範を呼び起こしながら葛藤を行う、という手法です。

スライド2

図2.両論を「なぜなら」とともに言語化する

方法3.「知る」という体験を経たのち、自分の何が変わったのかについて振り返る

「知恵の樹の実システム」がその人の中で動いているのであれば、「知る」ことによって、もはや決断の当事者は「知る」前のその人ではなくなっています。変容した自己を認識できないまま決断事象に向かうことで、葛藤に混乱をきたすかもしれません。だとしたら、その時に「知る」という体験によって自分の何が変容したのかということについて振り返ってみるということを試してみてもよいかもしれません。変容には、以下のようなものがあると考えられます。

  • 新しい他者との関係性が生まれている
  • 認識に関する新しい不確実性が生まれている
  • 新しい未来の想像が生まれている

これらの変容は、自分にとって好ましいものであったり好ましくないものであったりするかもしれません。ただ、日々更新される「理解の仕方」「物事のとらえ方」「大切なものや好きなこと」「気になる他者」に気づくことができれば、そこで発生している葛藤を必然のこととして受け入れることができるかもしれません。

不安の遣り繰り

「知る」という体験、それに伴う「知恵の樹の実システム」発動の副産物である「不安」を、通常人は好ましいものとして歓迎しません。不安は、可能であればないに越したことはないと考えるのが普通かもしれません。私は、不安は痛みのようなものだと考えます。関節が痛まなければ、人は無理な体の動き方をしてしまい、脱臼や骨折をしてしまうかもしれません。暑さ寒さを感じなければ、すぐに風邪をひいてしまいます。人が体感する不快な感覚は、きっと人が環境にしなやかに対応できるようにするために必要な感覚です。そして、不安もまた痛みや温度感覚と同じように、人が他者との新しい関係性や新しいものの見方を得ていく際に必要な付随物なのです。不安を避けたり不安を無理に押し込めたりすることは、「知恵の樹の実システム」の運動をいびつなものにさせていきます。おそらく大切なことは、自己変容のたびに立ち現れる不安をうまく遣り繰りすることなのだと思います。

「知る」ことによって発生した荒ぶる不安を無理に押し込めることなく、かといってそれに飲み込まれてしまうこともなくうまく遣り繰りするには、いったいどうすればよいでしょうか?私は、以前論考した「呪いの呪文」の構造にそのヒントがあると考えています(『研究ノート:情報化される個人の現在と未来【前編】ー不確実性とともに個人を「診断」し、個人の未来を「予言」すること』参照)。「呪いの呪文」は、まず「現在のリスキーな自分」と「未来に自分に降りかかる災難」をつなげ、その災難に自分が向かっているという恐怖を惹起させること、あるいは、不確かな未来を提示し、これからどうなるかわからない自分の不確かさを増幅させることでその人の不安感情を増幅させていくというステップを踏ませたうえで、厄介で不確かな未来に向かっていく自分を回避するための「厄除け」を提示するという構造を持っていると私は仮説を立てました。この仮説に準じるのであれば、マインドフルネス瞑想は、ひとまず未来の厄介ごとに巻き込まれる自分から自分を切り離すことによって「呪いの呪文」から自分をリリース手法であるということ、また、認知行動療法は、未来に起きうる不確かな災難に対して、自分が耐性があるということを自分に覚えさせることによって不安を手懐けていくという手法だということがわかります。

ここでキーとなる3つの単語があります。それは、「未来」「不確かさ」そして「災難」です。人が自らの中に立ち現れた不安をうまくやりくりすることができず、その不安から遠ざかろうとするのは、この3つに関する認識を人は上手く処理できないからだと私は考えます。

まず、人は未来に対してとても不合理な考えを持ちます。例えば、十分時間があるにもかかわらず、東京の人たちは駅のホームの電車が出発しようとしているところを見ると、5分後には次の電車が来ることが分かっていても、なんとなく急ぎ足になり飛び乗ろうとしたりします。これと同じような理屈で、それほど長生きを望んでいないと考えつつも、糖尿病のために将来起きうる合併症を恐れて毎日の血糖値のコントロールにいそしむ人はたくさんいます。

「不確かさ」についてもそれは言えます。「いちかばちか」というような状況は基本踏み出さない方が得策なのですが、むしろ踏み出すモチベーションを掻き立てます。逆に「ひょっとしたら失敗するかもしれない」という状況ではほとんど失敗しないはずなのですが、この印象のために踏み出すことができないというような事例をしばしば私たちは見かけます。

そして、「災難」の内容を査定するのも人は得意ではありません。例えば「寝たきりになる」という状況がどのような災難なのかということについて、自分のこととして具体的にイメージできる人はとても少ないと思います。そして、おそらく最もイメージがつかめない災難は「死」なのかもしれません。その意味では「このままだと将来大変なことになるかもしれませんよ」と患者に語り掛ける医師の言葉は、言われた人がそれによって発生する不安を暴走させるための大変良くできた呪文なのです。

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私たち人間は、自分たちがこの3つについて上手く認識できないということを理解しているべきでしょう。そして、様々な決断を行う状況において、なるべくこの3つについての自らの主観的な認識を咀嚼した上で、ちゃんと不安になることが大切なのだと思います。例えば、「このままだと将来大変なことになるかもしれませんよ」と医師から言われたとき、自らにこんな問いかけをしてみるのはどうでしょうか?

“将来とはいつか?その時期は、自分にとって短すぎるのか長すぎるのか?”

“大変なこととはどんなことか?そのことは、自分にとってどれくらい大変なことか?それが起きたとき、自分はどう感じるだろうか?それが起きたとき、自分の大切な人はどう感じるだろうか?”

“「かもしれない」とは、どれくらいの確率なのか?その確率は過去に自分が決断したときの確率と比べて大きいか小さいか?もしその確率がその3分の1だったら、もしくは3倍だったら自分の決断はどう変わるか?” ここで私が主張したいことは、「知る」という体験によって出現した不安を排除したり押し込めたりするよりも、決断にとって重要な資源として活用するほうがよい、ということです。そのためには自分が何についてどれくらい不安になっているのか、ということにあえて意識を向けていくことが大切なのだと思います。

翻って、不安の出現は、人に助けを求めるためのスイッチでもあります。助けを求めるということは、他者に依存するといってもいいかもしれません。ここで大切なことは、依存の程度が過ぎると自分と他者との境界があいまいになり過ぎてしまい、他者の価値に寄り添い過ぎてしまう危険があるということです。深刻な病気を告げられ強い不安に陥ったとき、患者さんがしばしば担当医に対して強い信頼を抱くことがあります。この状況はややリスキーな状況だと私は考えます。なぜなら、ここで発生している信頼は一種の「深い酩酊」だからです。心の酩酊が深すぎると、特にドミナント的立場にある他者の価値(ここでは医師が持つ医学的価値)に自分を委ねすぎてしまいます。それによって「安心が得られた状態」を作ることができるかもしれませんが、その状態は「変容する自己」にとっては一種の仮死状態なのかもしれません。

不安の表象は、適度に他者に依存し、適度に他者からケアを受ける自分を承認するための入り口です。そして、ケアされる自分を認めることによって、自分と他者との境界はあいまいになっていきます。自分と他者との境界があいまいになることは、自己変容プロセスにおいて自然なことであり、それはむしろ好ましいことです。そのような状態が生まれるからこそケアが成立するし、他者からケアされ、他者をケアすることではじめて個人は社会の中で物語を紡いでいくことができるとも言えます。

立ち現れる不安を他者に表象することは、自分と社会とのケア関係を続けていくうえで必要な燃料消費のプロセスなのです。不安をきっかけに、他者からケアを受けるということは、他者の価値に寄り添い酩酊することで、自分と他者との境界をあいまいにしていくことにほかなりません。そして、それは決して悪いことではありません。

お酒もそうですが、適度に酔っぱらっていることはむしろ人生を豊潤にするのです。しかし、クリティカルな状況においては常に泥酔の危険があります。ドミナント価値への過剰な寄り添い(それを「信頼」と見誤るのですが)によって得る安心は、泥酔状態かもしれません。だからこそ、「知る」ことを通じて起きる自己変容のプロセスにおいて、人はその副産物である不安をうまくやりくりする必要があります。湧き上がる不安の意味を見つめながら、適度に自分自身でそれを処理し、適度に他者からのケアを受けるための燃料としていくような遣り繰りができれば、その不安は湧き上がった甲斐があるというものです。

まあ、言うは易く行うは難しですが。

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