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AI/IoT時代の健康と医療

2019.09.08
「ポスト安心希求社会」での個人と社会のあり方【前編】:社会としての対策
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安心希求文化の実験モデルとしての「病院」

前回は「安心希求の意志と行動」とは「本当はその変容を止めることができない自己を、あたかも止めたように認識しようとすること」であるということについて解説を行いました。しかし、やはり自己変容は止められないので、止めようとする意志と実際に起きている変容との軋轢で起こる摩擦熱のようなものが不安の正体である、ということについての心的モデルの記述を行いました。そして、「病院」という閉ざされた、そのうえ「健康であることが至上の価値である」というドミナント価値観に支配された環境において「安心・安全」がスローガンのように謳われることについて、上述の心的モデルが強く関連していることについて主張しました。

少なくとも私は、この状況を超えていくための何らかの対策について提案したいと考えています。見せかけの安心を作り出す環境や社会、あるいは自分のこころは、「生きているのに生きていない」時間をいたずらに作っているだけだと思っています。人は、体験し、新しいことを知り、それらを触媒に自己変容を繰り返していく。このプロセスこそが「生きている」ことなのだと私は主張します。現代の病院が持つ「安心文化」は、そこにいる人たちを「生きているのに生きていない」状態に押し込めようとする文化です。

ここには、大きく分けて二つの対策のターゲットがあります。一つは安心な社会を希求する「環境」に対する対策であり、もう一つは安心を希求する「自己」に対する対策です。今回は、前段の「環境」に対する対策について考えてみたいと思います。おそらく、これから考察する「環境」への対策は、今の「病院」という環境に対する対策として直接応用できるものである必要があるでしょう。

前回私は、高度に分析された情報を提供したうえで、「あなたの将来はこのような不幸が予想されます。もしこれからより不幸な方向への変容を止めたいのであれば、私が用意したレールに乗りなさい」という指令を時に明示的に、しばしば非明示的に発令し、個人や集団を縛っていくような仕組みを「主体の情報化」のしくみと呼びました。ここで注目していただきたいのは「もしもOOOという予測される不幸な転帰を避けたいのなら、XXXをしなさい」という指令は、プログラミングでいう「If/Then」構文そのままだということです。「If」の条件を設定することで、その条件に合致した場合には、行動に至るまでの解釈、思考、葛藤、選択を排除することにこの指令は成功しています。私の考える「主体の情報化」のエッセンスは、人がある事象を前にして選択し行動するに至るプロセスにおいて、「ゆらぎ」を排除する仕組みをセットすることです。倫理学などを勉強された方はパッと気づかれるかもしれませんが、これは「パターナリズム」の仕組みなのです。

 

「ハーモニー」「PSYCHO-PASS サイコパス」にみる情報によって統治された「安心希求社会」

私たちが行っている研究開発事業「内省と対話PJ」が取り扱うテーマは、近未来の情報社会において人が自分の人生を生きていくうえでの事前準備についてなのですが、近未来において、情報自体が「パターナリズム」のような関係性の中で個人や社会を統治するという「ディストピア」を描いたいくつかの素晴らしい文学作品が存在します。ここで、特に私たちが注目している二つの作品を紹介します。一つはアニメ化もされている小説「ハーモニー」(伊藤計劃、早川書房)で、もう一つは大ヒットしたアニメーション「PSYCHO-PASS サイコパス」です。

小説「ハーモニー」で描かれていた社会は、健康であることを至上の価値とし、巨大なネット上の情報統治と個人に装着されるセンシングとナノテク治療技術によって個人個人の健康がほぼ完璧に管理されている社会です。そこでは、社会の有効なリソースとして健康に生きることが「善」とされ、情報によって統治された社会の中でその規範に十分なコンプライアンスを持って生きることが、人間にとっての幸せとして描かれています。当然、個人個人の自由は制限されるのですが、もはや個人はその不自由について意識していないような社会です。

「ハーモニー」において、情報による主体の統治の象徴として描かれているのが、社会を構成する個人一人一人の体内に埋め込まれるセンシングデバイス「WatchMe」です。この「WatchMe」によって個人の体の異変はもちろん、メンタル体調やプライバシー、さらには価値観などもすべて情報化されクラウドに継続的にアップロードされているわけですが、その状況に慣れてしまった人々にとっては、その環境に身を任せることで安心を得ています。

さらには、常に「完璧な体調」を保証するための個人への継続的な治療介入のしくみとして「メディケア」というシステムと個人はつながっており、体調に何らかの不調が発生すると、本人の選好にかかわらずメディケアによって体調は即座に修復されていきます。メンタルの不調に関してはカウンセリング的なセッションがデザインされるのですが、その名称は「倫理セッション」と名付けられています。ここで使用されている「倫理」という言葉は、小学校で習う「道徳」と同義だろうと私は解釈しました。メンタルの体調も「人それぞれ」であることが許されない社会を象徴する言葉です。「ハーモニー」で描かれる社会に住む個人は、まさに本当は返答しているにもかかわらず、あたかも永久的に止まっている、あるいは、「あるべき方向」に一方向性に進み続けているかのような錯覚の中で自己を演じていきます。

「PSYCHO-PASS サイコパス」も同じテーマを取り扱っています。「PSYCHO-PASS サイコパス」では、人の精神状態の安定感が「psycho-pass」という指数で数値化され、その「濁りの度合い」が強い人間は隔離収容、および矯正の対象になる、という社会の設定が描かれています。すごいのが、その「psycho-pass」の数値を測る機械は「ドミネーター」と呼ばれる特殊銃で、さらには数値測定直後に「潜在的に犯罪をなしうる」精神状態だとドミネーターによって判断された場合には、測定対象となった人間をその銃で確保したり抹殺したりすることになっている、という仕組みです(ドミネーターって、どんだけ?ですよね)。「psycho-pass」で描かれる社会では、人は現代の人と同じように未熟で、迷いを持ち、脆弱です。しかし、社会はそれを「精神状態の安定度」という単一の尺度で統治し、不安定要素を視界から排除していくことであたかも世界が「止まっている」かのような安心感があるように演出していきます。

ポスト安心希求社会にむけた処方

二つの物語の中で描かれている「ディストピア」社会は、幻想のような「安心」で個人が覆われた社会ですが、一方で、情報による個人や社会の統治は人間がその生を生きるという特性そのものを奪っているように私には映ります。

情報によって統治された社会において見いだされる原理は、第一に「分析の文法が単一である」ということ、第二に「“善い”ことの基準が単一であること。すなわち“みんないっしょ”であること」、第三に「人の魂に単純化された尺度が適用されること」、第四に「人が何かを見たり体験したりした後、それに準じた選択や行動が自動化される仕組みが作られていること。そのためには、見たことや体験したことに対して、それらを人が、個人が持つ認識スキーマ → 価値 → 規範などに照らし合わせるようなプロセスを排除する仕組みができていること」、第五に「問題は、解決されることを前提としてとらえ、その解決された姿も、解決の方法も一定の法則で説明できること」、第六に「異端分子は“なかったこと”にすること」とすること、と私は考えました。

これらの原理によって、人は自分が変容することの不安を逃れ、たとえ新たに物事を知ったとしても、どこに飛ばされるかわからない自己ではなくレールの上を走っている自己であることの安心感を得ることができるのでしょう。しかし、私はこのような社会に人間として住みたくありません。自分の別のブログで言及した(note『人間の自由と尊厳を蹂躙する「絆システム」』を参照)「絆システム」にみられる息苦しさがここにはあります。

以上の原理を現在の「病院」のカルチャーに当てはめてみるとどうでしょうか?第一から第三の原理までは、言うまでもなく病院では如実に存在している特性だといえます。第四の原理も、とても病院的だと私は考えました。診療ガイドラインやクリニカル・パスがあたかも法律のようなものとして取り扱われている今の病院の状況(診療ガイドラインやクリニカル・パスそのものが問題ではなく、その取り扱われ方が問題だと思っています)などは、いかに「人それぞれ」の考え方を排除し、思考や葛藤のノイズを最小限にしたうえで「If/Then」構文に人間と社会を乗っけていくか、ということに躍起になっているように見えます。第五の原理は、西洋医学の原理そのものです。

そして、西洋医学のまさに「徒」である医師がそのカルチャーにおいてドミナントな存在である病院では、おのずとこの原理はあたかも前提であるかのようなオーセンティックな価値として認識されています。最後の第六の原理は、わたしは「診断」という仕組みの中に奥深く組み込まれている闇深い仕組みだと思っています。たとえば「病名」がつかないからだやこころのことで困っている人は「病気ではない→なにもできることはない」とするような考えです(まさに「うまから」サイトのコンセプトと連動しています)。

前述の小説「ハーモニー」においては、ディストピアとして描かれている「安心社会」にどのような処方が有効であるかについては具体的に描かれてはいません。差し当たって、「病院」という実験的な「安心希求社会」で今できる処方はどのようなものでしょうか?自分の臨床家としての問題意識にあてはめて考えたとき、2つほどアイデアが思い浮かびます。とても重要なことの一つは、治療などのプロセスに進む前に強制的にでも患者自身が自らの決断やこれからのことについて、自分事として迷い、葛藤するプロセスを医療のプロセスの中に仕組みとして挿入することだと思います。そして、葛藤のプロセスにおいて「かなえたいこと」「大切なこと」「おそれていること」について、当事者が言葉として口に出し、その口に出した言葉を聴くものがいる、という仕組みがそこに存在していることです。

二つ目の重要なことは、「すべての選択肢が尊重されること、選択肢が生む事象の価値相対性が担保されること」ということだと思います。たとえば、入院後にベッドから転倒する可能性がやや高い人が、それを予防するための身体抑制を拒否するという選択肢が尊重されるということです。さらには、その向こう側に起きうる転帰である「骨折したり大怪我したりするかもしれないこと」よりも「干渉を受けずに自由でいること」の価値相対性が担保されるような社会の仕組みを作ることです。

病院でしばしば医療者によって発現される「(そんなことしたら)死んじゃいますよ!」という言葉は、不確実な転帰の価値を固定化しようとする所作です。「ハーモニー」では、飲酒習慣や喫煙習慣を持つ人間は、緩やかに自殺しているととらえられていますが、病院における「リスク状況/リスク行動」はこの延長線上にあるものなのです。事象の価値を相対化させる方法は、そこにある状況を「事実」で表現するだけでなく、表現者が持つ「感情」で表現することだと私は思います。たとえば、「私たちは、あなたが転倒して骨を折ることが怖い。そのために、あなたの自由や尊厳を少し奪いたいと感じている」というような言葉の文法が「ポスト安心希求社会」には重要なのかもしれません。

「ポスト安心希求社会」において導入されるべき社会の仕組みはもっとたくさんあるでしょう。今回のプロジェクトでそのアイデアについてさらに深めていければよいかと思っています。次回では、近未来の情報時代において安心を希求する自己に対して、人は「個人のレベルで」どのようなことをしていけばよいのかということについて、特に「日々生じる不安をどう乗りこなしていくのか?」という問いを中心に論考したいと思います。

(イラスト:おおえさき)

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