うまくいかないからだとこころ

AI/IoT時代の健康と医療

2019.04.26
「情報病」としてのインフルエンザ
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 いうまでもなく、人工知能やIoT(Internet of Things)が圧倒的に優れているところは「データを集め、情報を生み出すこと」です。IoTが自分の部屋や家庭、コミュニティ、そして診察室に十分に装備された社会においては、医師としての私、あるいは、患者一人一人の一挙一動のすべてがデータ化されるかもしれません。それによって、診断技術は飛躍的に高まっていく可能性があります。

例えば、ベテラン医師が目の前の患者さんを見て感じ取る「なんとなく危ない感覚」のようなものは、その患者さんの息遣いや言葉のイントネーション、肌の質感、目線とその動きなどから総合的に感じ取っているのかもしれません。これらはおそらく「ベイツ診察法」の教科書には載っていない「ベテランの経験から培った総合的な感じ」なのだと思います。診察室のWEBカメラは、その「総合的な感じ」を「データ」としてくまなく収集するでしょう。そして、人工知能はその「総合的な感じ」を解析し、「なんとなく危ない感覚」をおそらくいとも簡単に割り出すことができると思います。新たな情報技術によって生み出される情報は、多くの場合医療者側の解釈や患者さんの決断を支援してくれます。

「情報技術」としての検査機器など

 その意味では、MRIなどの画像診断機器や遺伝子検査なども情報技術の一つです。すなわち、医師が「あなたの病気は脳梗塞です」と患者に告げたり、患者が「私は手術を受けます」という表明をしたりする根拠としての「情報」を生み出す技術としてそれらは存在しています。そして、それら「情報を生み出す技術」の原則は、一度開発されてしまったらその技術なしで社会をやりくりすることができなくなる、ということです。

例えば、頭部CTスキャンがすでに病院に実装されてしまった環境においては、私たちは患者さんに対して「脳梗塞か脳出血かのどちらかだが、どちらかはなかなか判別ができない」という解釈は困難である、ということです 。私たちは、医学の進歩の歴史の中で、CTスキャンという「情報技術」によってより詳細な診断を容易に行うことができるようになり、より適切な医学介入を患者さんに提供できるようになりました。その一方で、情報によってもたらされた「明らかなこと」をうまく利用していく義務も背負うことになります。開発されてしまった情報技術をなしにすることはできませんし、多くの技術開発は人々に利益をもたらすために作られるものです。大切なことは、それら技術が本来社会に利益をもたらすためにうまく運用されるよう、個人や社会が工夫することだと私は思います。

インフルエンザ・ヘル

 今シーズンは特に顕著だったなあというのが私の感想なのですが、インフルエンザにまつわる新たな技術の発達は、「インフルエンザ」という病気を一種の「情報病」のようなものに仕立て上げてしまったようです。これは、社会が技術発達に伴う運用を誤ったのかもしれません。典型的な、おそらく今冬多くの臨床医が遭遇した、あるいは聞いたであろう事例を挙げます。

29歳独身男性、典型的なインフルエンザ症状を昨晩から発症し本日午前中に会社を休んで総合病院の内科外来を受診。病歴上も身体所見上もインフルエンザを強く疑うが、インフルエンザ迅速診断キットが陰性であり、外来担当医から「インフルエンザとは確診できないので、また明日来院してもう一度迅速検査を受けてほしい。なお、会社には行かないように」と言われ、その日は解熱薬のみを処方され帰宅。翌日、体じゅうがきつくて病院に行くのも辛かったが、診断および抗インフルエンザ薬の処方を求めてタクシーで再受診。再検査で迅速キット陽性であったため同日タミフル®の処方を受けることがようやくできた。それでも体が楽になったのは第4病日だった。その後会社に出社の問い合わせを電話で行ったところ、「病院から治癒証明書をもらってくるように」と言われ、再度病院に文書請求のため来院する必要があった。ようやく出社すると、上司からは「これからはインフルエンザの予防対策をちゃんと勉強して、自己管理をしっかりしてほしい」と皮肉を言われた。

 実際に、ここ数年以上のような実に残念な事例をしばしば耳にします。このような残念な状況は、医療技術の発達、特に医療に関連する情報技術の発達が運用のレベルで下手を打っているために起こっている状況だと私は考えます。

まず、迅速診断キットがなかった時代にインフルエンザは「流感」と呼ばれ、大雑把には風邪と十羽一絡げの概念でした。ですから、流感(インフルエンザ)にかかれば家で布団にくるまって寝ていただけでした。そこに「インフルエンザ迅速キット」が登場し、さらに「抗インフルエンザ薬」が登場したことによって、インフルエンザがもつ意味は大きく変わりました。それは、「医療機関に行って診断を受けなければならない病気」となり、「抗インフルエンザ薬という薬によって治療されるべき病気」となり、「治癒によって他者への感染の危険性がなくなっていることが証明されるべき病気」となり、そして「自己管理が甘い人間がかかる病気」になってしまいました。

これらすべて「そんなばかな!?」と私は個人的に思っていますが、新たに開発された情報技術と、それらによって生み出された情報は、しばしば個人や社会を迷走させます。前述しましたが、もちろん開発された情報技術に罪はありません。問題は、そこから生み出された新しい情報を、利用する側が上手に運用することなのです。私には、最近のインフルエンザにまつわる社会の迷走はまさに「情報病」という病を連想させますが、インフルエンザはあくまでわかりやすい一例にすぎません。

情報は常に真実そのものではない

私は、これは情報の強みでもあり弱みでもあると思っていますが、情報には大きな前提があります。それは、「情報は真実そのものではない。情報は、真実に限りなく近づこうとしている“エラー交じり”の儀 真実なのだ」 ということです。

だからこそ、情報は情報として成り立っているとともに、情報にはつねにその信ぴょう性についての吟味が問われるべきものなのです。信ぴょう性の高低にはもちろん大きな差があります。急に右の手足が動かなくなった血圧の高い高齢者の頭部Diffusion MRIで左脳にぴかーっと光っていたら、それは「この患者さんは脳梗塞を発症した」という事実をかなり高い信ぴょう性のもとにあらわしているとほとんどの医者 は解釈します。翻って、29歳の会社員がインフルエンザになったとき、そこに提示されている情報をもって「この人間は自己管理が甘い人間である」という事実を立証しているとはとても思えません。新しい情報社会においては、事実と、その事実の裏付けとなる情報との関係に関する吟味、さらにはその上で自分の生活や社会の調和をどのように調節していくか、ということに対するノウハウが必要になってくると私は感じています。

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