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2019.10.03
ポスト安心希求社会での個人と社会のあり方【中編】:「知る」ことと「自己変容」との関係
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今回は、これまで私が連載の中で述べてきた「情報と人間との付き合い方」に関するまとめのような意味合いを持たせながら書いていきたいと思います。ですので、是非前回(『「ポスト安心希求社会」での個人と社会のあり方【前編】:社会としての対策』参照)までの連載の原稿とともにお楽しみいただければ幸いです。

人が安心を希求したいと願うことによって、社会が個人一人一人の時間を止めるような仕組み、本来ならば絶え間ない自己変容の中で流れていく人生のストーリーをあたかも「あなたたちは変わる必要がない」「あなたたちは考える必要がない」というメッセージの中で社会が構成されていくという仕組みが生みだされることについて、また、そのような仕組みに対して社会が見据えていくべき対策について私は前回言及しました。今回は、人間個人ができそうな事がらに光を当てながら論考を進めようかと思います。

アダムとイヴが「知恵の樹の実」を食べた代償に持ってしまったもの

私は聖書の内容は全く詳しくないのですが、ここまでの論考から想起したのは、旧約聖書の「創世記」です。アダムとイヴが「知恵の樹の実」を食べたことで、人間には必ず死が訪れるようになり、生きている間も人間は苦しみながら生きるようになった、という有名な一説のことです。ろくに聖書も読んでいないですが、私は、これからの人間の生き方、在り方を考える上では、このエピソードはたいへん象徴的なものだととらえています。

人間は「知恵の樹の実」を食べる前までは無垢で自由な存在でした。そこには悩みも葛藤もなく、実際は「神」からの統治を受けているにもかかわらず、その統治に対して疑問を持つことがないため、「安心」な状態で生きていくことが可能でした。しかし、人間の祖先は「知恵の樹の実」を食べてしまったことで、「知る」ことの意味を知ってしまったのだと思います。おそらく聖書には、「知恵の樹の実」が、人間の意識のどの部分に作⽤したのかということは書かれていないと思いますが、このエピソードはまさに人間が意識を持って生活する生き物であることについての物語だと私は理解しました。すべての体験は、脳を持った生き物たちに「知る」ことを強要します。これは、感覚器を含む脳を持ってしまった動物にとっては避けられないことなのです。しかしながら、人間以外の動物たちは、悲しんだり喜んだりはしていますが、悩んだり疑問を持ったり葛藤したりしているようには見えません。私の考えでは、「知恵の樹の実」の作用は「知る」という脳内ダイナミクスによって、その刺激が「自己」のどこかのレイヤーを連鎖的に反応させてしまうという作用なのではないかと思っています。「知恵の樹の実」を口にした人間は、体験や知識の取得によって多少なりとも自己変容を絶え間なく続け、その上で最後に死を迎えます。

「知恵の樹の実」を食べてしまった人間は「知る」苦しみを運命づけられてしまった生き物である、というのが私の今の見方です。人間以外の動物が「知る」ことをどのように感じているのかはよく知りませんが、少なくとも「知恵の樹の実」を食べてしまった人間は「知る」ことによって自己変容を余儀なくさせられてしまう生き物として存在します。そして、自己が変容するときには多かれ少なかれ何らかの苦痛を伴うのです。では、その苦痛の中身を私たちはどう読んでいるのか?私は、一つは「葛藤」であり、もうひとつは「未来に対する不安」だと考えています。

9月2

「知る」ことが「自己変容」に与えるメカニズム

ここでまず、人間が「物事について知る」ということは、人間の自己のどのレイヤーに影響を与えるのかについて考えてみたいと思います。前々回(『研究ノート:情報化される個人の現在と未来【後編】―:自己変容と不安、情報との関係』参照)で紹介した「自己を形成するレイヤー」に関する私の仮説をもう一度引っ張り出します。人間が「自己の意識」を形成する上でいくつものレイヤーを持っていることについては人工知能の父と言われているマーヴィン・ミンスキーの著作の中でも詳しく述べられています。私が今回の「内省と対話プロジェクト」で示したものは、自然知能の中に格納される「理解」「認識」「価値」というおおざっぱなレイヤーでした。おそらくそれらのレイヤーには明確な切り分けはなく、シームレスにつながっているものだと私は解釈しています。そして「価値」の深層にはさらに「価値観」や「規範」というものが存在していて、深層になってくれば来るほど普段自分では言語として意識していない「自分を形成している骨格」のようなものとして、自己を支えているのだと思います。

さて、「知る」という所作は、外側にある何らかの事がらを自分の意識の中に格納するという所作であることはなんとなくイメージが付きます。しかし、その「事がら」は自己のどのレイヤーに格納されていくのでしょうか?私はここに来るべき新情報時代における情報と個人との付き合い方のカギがあると思っています。

まず、教科書に書かれているようなことを、まさに教科書のような媒体を通じて知ったとき、その知識は「理解」のレイヤーに主に格納されていくのだと思います。例えば、「紀元645年に大化の改新という国政改革が起きた」という事実だけを切り取って自分の知識としたとき、はるか昔におこったその出来事は人間の「理解」のレイヤー、しかもかなり表層のレイヤーに格納されていきます。しかしながら「大化の改新という政変は、それまで豪族が武力をもって権力を得ていた世界から、天皇制という新たな秩序に変えていったきっかけとなるクーデターだった」というような「意味づけ」とともにその歴史的事実を「知る」ことになったとたん、その事がらは「理解」のレイヤーを超えて「認識」「価値」「規範」のレイヤーに飛び込んできます。これは、そのことの良しあしにかかわらず起こることなのです。

「情報化されているテキスト」に関して言うなら、自分が目で見たもの、聞いたことについて、それを自分の自己意識のどのレイヤーで処理するかについてある程度コントロールすることが可能かもしれません。「情報化されているテキスト」とは、例えば人間ドックの結果だとか、プリントアウトされた性格判断の結果などを指すと考えてください。情報化されたテキストについては、ある程度の注意を払っていれば、そのテキストを見たり聞いたりしたとき、人はまず「理解」の表層のレイヤーだけで受け止めるように思います。その理解を進めた後で、徐々に咀嚼しながら「認識」「価値」のレイヤーに沈み込ませていくことが可能です。さらに、その時に感じた「認識」「価値」を、そのテキストを媒体として「自己」の根幹にかかわる「価値観」「規範」のレイヤーにどの程度落とし込んでいくかどうかについて、個人はある思考のプロセスを通じておそらく調節することができます。これら「知る」ことから「絶え間ない自己変容」に至る自己と意識の仕組みを「知恵の実システム」と呼ぶことにします(図1)。

スライド1

図1. 「知る」ことが「自己変容」に至るメカニズム(知恵の実システム)

一例をあげます。今はやりの遺伝子検査をしたうえで、検査会社から「あなたが将来食道がんあるいは咽頭がんになるリスクは1.64%で、これは一般的な日本人の3.3倍にあたります」というテキストを得たとしましょう。この情報を知った際、当事者の自己と意識には何らかの刺激が発動します。その際に知恵の実システムにおける「理解」と「認識」のレイヤーに起きた変化が、「価値」のレイヤーにどのように伝わっていくかについて人間は何らかの制御を行っています。同じような内容のインプットがなされたときに、同じように価値づけを行うというのは人間の心がどこかで働かせている制御の仕組みです。さらに、いやおうなしにそのテキストがもたらした経験によって「認識」や「価値」の変動は「自己」を形成する「価値観」や「規範」にある程度伝達していくのです。「知る」ことをもって自己変容のスイッチが絶え間なく入ってしまう仕組みを持ったこと。これが「知恵の樹の実」を食べたことによって人間が得た命題です。

「意味づけとともに知る」こと

翻って、「情報化されているテキスト」をシンプルに「理解」のレイヤーで受け取る以外の受け取り方を人は持っているかもしれません。それは「意味づけとともにテキストを受け取る」ということなのかと思います。そして、この「意味づけとともにテキストを受け取る」方法として、大まかに分けると二つの方法がある気がします。一つは能動的な方法で、もう一つは受動的な方法です。

まず能動的な方法について解説します。この例の一つは前述した「大化の改新」の歴史的な事実を知る際に、その政変が起きた背景を物語としてとらえ、自分が生きてきた道のりと照らし合わせながら知る、という方法です。能動的にテキストを受け取ることで、「知る」という行為は「意味を持った経験」となります。「知恵の実システム」に照らし合わせるなら、「この人はどうしてクーデターを起こそうとしたんだろうか?」という疑問や「うーん、さすがにラジカルすぎるなあ。俺にはちょっと無理」とかについて想像しながら「大化の改新」のテキストに触れる、ということです。

他者との対話(ダイアローグ)的なやりとりは、能動的に「意味づけとともに知る」所作といってよいでしょう。他者は自分にとっては常に異質な存在であり、その他者を意味付けとともに受け入れるということは、実は相当難儀な行いだと私は思っています。おそらく、「理解」→「認識」→「価値」→「価値観」→「規範」の交通の窓口を大きく広げ、さらには矢印の方向も行ったり来たりをしやすくするような「知恵の実システム」の仕組みを自分の中にセットしないと、ダイナミックに変容し続ける自己に自分がついていけなくなってしまうと思います(図2)。だからこそ、オープン・ダイアローグのような一見何のスキルもいらないようなコミュニケーションの在り方が、とても大切で鍛錬を要する「技術」として位置づけられているのだと思います。いずれにしろ、能動的に「意味づけとともに知る」という所作は、人間として鍛錬を必要とする所作ではありますが「知る」ことによって「変わる」自分を前提としながら「知る」ことをしているという意味においては、ただ「理解」のレベルにとどめようとしながら「知る」ことよりも、より人間らしい所作なのかもしれません。

スライド2

図2.能動的に「意味づけとともに知る」ことで起きること

次に、受動的に「意味づけとともに知る」ことについて解説します。ひとつは、すでに情報の中に意味づけがしみついているようなテキストがあります。例えば「文春砲」に代表されるような「けしからんやつがけしからんことをしているのでみんなでディスりましょう」というようなテキストです。これらのテキストは「知恵の実システム」の穴をうまくついてきます。このテキストは「理解」の入り口から侵入しているように見えて、実は「規範」の入り口から逆に入ってきているテキストなのです(図3)。

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図3.外側の規範に寄り添った上で「知る」こと

「文春砲」的なテキストは「図らずも受け取ってしまった」というタイプのテキストではありません。実は、自分があらかじめ持っている「規範」に寄り添うようなテキストを自己が見繕って採択しているのだ、というのが私が考えている仮説です。すなわち「けしからんやつがけしからんことをしているのでみんなでディスりましょう」というテキストを、自分があらかじめ持っている規範が探し、「規範」のレイヤーから裏口入門させて「理解」のレイヤーに送り込んでいるということです。そのように逆方向から自己に受け入れられるテキストは、自己変容の触媒にはなりません。ですから、「知った」としてもそれが「不安」には結びつかないのです。このように知っても不安にならないため、知っても自己変容が起こらないことを確認するために「知る」ことは、私は受動的な「意味づけとともに知る」所作であると考えます。

もう一つの「意味づけとともに知る」状況は、何らかの強い価値や権威を持った立場の他者から発せられた言葉を不意に受け取ってしまったというような状況です。「強い価値や権威をもつ立場の他者」という言葉でまず想起されるのは、例えば裁判官の言葉、教師の言葉、そして医者の言葉です。これらの職業に就く人たちの言葉がなぜ「意味づけ」をまとっているのかというと、これらの職業の人たちは、強烈な社会的規範との約束の中で働いている人たちだからです。裁判官であれば「社会秩序を守る」という規範、学校の先生であれば「カリキュラムに準拠して人の成長を促す」という規範、そして医者は「人の健康維持と促進」という規範です。これらの強い規範から個人が自由になることはなかなか困難なことです。

医師は「健康であることは良いことだ」という規範に基づき、それらの規範によって意味づけされた言葉を「あなたの健康のために」発していきます。例えば、前述した「あなたが将来食道がんあるいは咽頭がんになるリスクは1.64%で、これは一般的な日本人の3.3倍にあたります」というテキストをWEBサイトのページで読むのか、それとも病院で医師に通告されるのかということは「意味づけとともに知る」という観点からは異なるインプットになるということなのです。健康の番人から「ドミナント規範」とともに発せられるメッセージは、人の「理解」以外のレイヤーに信号を直接送るのです。さらには、医師によっては「このままの生活を続けていると、食道がんになるリスクがあります」「アルコールの摂取などはさらに食道がん罹患のリスクを高めます」という「知識」を「ドミナント規範」である「がんに罹患することは避けなければならない」というメッセージとともに発信するでしょう。このこと自体は悪いことではなく、むしろ専門家としてのプロフェッショナリズムに基づいた行動であるといえます。

問題は、受け取る側が、そのテキストを受け取るときに、「理解」の入り繰りを超えて「価値」や「規範」のレイヤーに直接影響してしまうときです(図4)。このとき、ちゃんと自分が理解したことを認識としてとらえ、それを自己の奥底に取り込んでいくというシステムに破たんが生じます。具体的に言うと、準備なく「不安」が訪れる、ということだと私は理解しています。準備のない「不安」の発言は人の自己を脆弱な状態に陥れます。だからこそ「安心希求」という欲求が自動的に生まれてくるのです。 「意味づけとともに知る」という行為は、それが能動的である場合には「知恵の実システム」がそうあるべき形で機能することを促進するものと私は考えます。一方で、それが受動的な状況で受け入れられるとき、人間の変容のかたちはややいびつな動きをするのかもしれません。

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図4.「ドミナント規範」を持ったテキストを知ることで自己に起きる影響

次回は、以上のような自己変容の仕組みを前提としたときに、個人としてどのような工夫ができるのか、ということについて、特に「葛藤」と「不安」という人の心の発生物を中心にしながら論考したいと思います。

(イラスト:おおえさき)

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