うまくいかないからだとこころ

AI/IoT時代の健康と医療

2019.05.25
多くの 疾患 が克服された社会における健康と病気
この記事をシェアする:

ここ50年程の医療技術の発達には目覚ましいものがあります。今はがんを中心としたゲノム医療の時代に入ってきました。一人一人のゲノム情報によって、医療の内容も変わってきます。そして、あらゆる疾病にはそれを克服するための何らかの手立てがあるように感じられる時代です。

現代に残された病

 人と人、に起きていることを可能な限り情報化し、解き明かされた情報に基づいて診断を行い、診断を基盤としたアルゴリズムに基づいて介入を行っていくという方法論は、感染症やがん、循環器疾患に代表される、人に深刻な健康不利益を与える深刻な問題を次々と解決していきました。そのため人の寿命は明らかに延び、将来大きな病気に罹患する前にいくつもの手立てを講じることが可能になりました。

一方、現代の人々が50年前の人々に比べて明らかに健康になったのだろうか、という問いについては、素直にイエスということが私にはできません。おそらくそれは、現代医療のアプローチでは困難な健康問題、あるいは現代医療のアプローチの副作用として立ち現れた健康問題が存在している気がするからです。

現代の医療における「病気」の概念の形成方法

 現代医療が行っている健康問題に対するアプローチ方法とは、構造的には以下のアプローチだと私は考えています。

1 「まとも」を定義づける
2 「まとも」のひな型から逸脱するものを「病気」と定義づける
3 「病気」の範疇にある状況を持つ人を「病人」と定義づける
4 「病気」をデリートすることで、「病人」を「まとも」にした、と認識する/させる

 このアプローチは「個人を情報化する」という手法と実に親和性が高いものでした。第二回のコラム(『「情報病」としてのインフルエンザ』を参照)でもお伝えしたように、CTスキャンや様々な検査技術、さらには診断基準などは、以上の手順を適切に踏んでいくうえで大切な「情報技術」として開発されていったものです。

 このアプローチのもう一つの大きな功績は、現在どこも具合が悪くないと考えている人に対して「あなたの具合は悪いのだ。そして、あなたには医療の介入が必要なのだ」ということを宣言することができるようにした、ということです。例えば、糖尿病という病気は一部の例外を除いて特に症状はありません。しかし、個人のプロファイルが情報化され、専門家による解釈がなされることによって「このままの状態だとあなたは将来大変なことになる」ということを具体的な数字を用いて予測することができるようになりました。

 人工知能(AI)の最も得意なことのひとつに「将来を予測すること」がありますが、医療はまさに現在の状況を情報化することで特定の個人の将来を予測し、不幸な招来を避けることを目的に介入を行うサービスとして需要を獲得したのです。

 ここ50年程の医療技術の発達には目覚ましいものがあります 。今はがんを中⼼としたゲノム医 療の時代に⼊ってきました 。⼀⼈⼀⼈のゲノム情報によって 、医療の内容も変わってきます。 そし て、 あらゆる疾病にはそれを克服するための何らかの⼿⽴てがあるように感じられる時代です。

4月2 (1)

 

一方、このアプローチ方法はいくつかの深刻な副作用を生んできたような気がします。私が思いつく限り、少なくとも3つの問題がこのアプローチの副作用として存在しています。

 第一には、「病気」と「病気でない」ことの境目が一律に分断されてしまうという点です。それは、糖尿病などの測定値によって診断が定義されるような疾患に典型的です。同じ医学的な測定値を持つ患者は、その人個人の特性にかかわらず「病気」と「病気でない」の境目のどちらかに同じように振り分けられます。しかしながら、実際の臨床を経験する中で「確かにこの方は糖尿病の診断基準を満たしているのだが、この人にこの時点であえて糖尿病の診断をする必要があるのだろうか?」と考えてしまうような事例に私たち医療者はしばしば遭遇します。その時、もちろん専門家としては「事実(診断)は事実、やりくりはやりくり」というスタンスでふるまうことが適切ですし、実際に私もそうしていますが、感情的には疾病の診断とその人が持つ「個性」とが分断され過ぎていることにしばしば違和感を持ったりします。

 「この病気は、もはや個性ではダメなのか?」という状況が顕著となるのは、「認知症」や「発達障害」などの病気です。もちろんこれらの状況が情報化されきちんと診断されるメリットはとても大きく、しっかりと診断されることで救われる人がたくさんいることはその通りだと思います。ただ、「認知症」あるいは「発達障害」と診断され、専門家から「治療が必要である」と判断されたとき、その当事者の困りごとの支援と「病気」の問題解決とが乖離してしまうことを私はしばしば感じます。医療が「病気」のラベル付けとともに介入することで、かえって当事者が追い込まれてしまったり辛い思いをしてしまったりすることは少なくないかもしれません。

 第二に、そして翻って、個人の情報化による「病気」の認知というアプローチは、情報化されていない体の不具合は「病気」として認められない、という状況を構造的に生みます。そして、これは医療サービスにおける経済的な仕組みとも密接につながっています(すなわち「病気」として認められていない健康問題にいくらかかわってもお金にならないという仕組みです)。実際の臨床では、患者さんは「患する(わずらう)者」としてまさに専門家を訪れますが、先に挙げた「まとも」から外的基準をもって逸脱していない限り専門家からは「病人」としては認識されることがありません。「患する者」が医療との接点を持ち続けることができなくなる構造を現代医療アプローチは含有している気がします。

 第三には、情報化によって「見えない不幸な未来を見通す」ということを可能にした医療は、健康問題の当事者を無意識のうちに「不幸を避けることを最大の目標にする人生」を選択させる力学を働かせます。高血圧や糖尿病、脂質異常などの慢性疾患を持つ患者さんに対する対処に顕著ですが、自覚症状を持たない患者さんに対して「自覚はないかもしれないがあなたは『まとも』ではない。『まとも』でない状態を続けていると将来こんな不幸がやってくる。だから今あなたは自分を『まとも』に戻す必要がある」というメッセージを医師が発することは、当事者に実に大きなインパクトを与えます。

 本来人はいろいろなこと――たとえば、愛し合うことや、快楽を得ること、有名になること等――を目的に、さらにはその目的を適度にとっ散らかせた形で生活しているのですが、医療の専門家の発するメッセージは、呪文のように当事者の目的を「将来の不幸なイベントを避ける」ということに集約させていくパワーを持っています。次回以降の投稿でも言及するつもりですが、「情報による予言のマジック」によって人は自分の人生を医学の物語に寄り添わせていきます。医療者にとってそれは都合の良いことではありますが、当事者にとってそれが果たして望ましいことなのか、ということについて、私はいつももやもやした思いを感じています。

情報化アプローチの次に医療に必要なアプローチ

 私は、これからのヘルスケアは今までの方法論、すなわち、個人を情報化することで問題を解決するという方法論から、別の方法論を生み出していく時期に来ていると感じています。そしてこのコンセプトは、おそらくAI時代となり、環境のすべてが情報化されたときに人間が幸せに生活していくうえでの新しい方法論ともつながっているのではないかと思います。その方法論については今後この連載で「研究ノート」として具体的な内容を紹介したいと思っていますが、おおざっぱに言うのなら、一つは「境界をなくす」ということ、そしてもう一つは「時間とともに変わりゆく存在として人をとらえる」ということかというのが今の私の見方です。

 前者については、「病気」と「病気ではない」ところのはざまにあるぼんやりした部分に個性を見出したり、健康について「マイナスがゼロになる」ことばかりに着目するのではなく「マイナス10がマイナス3になった」ということのポジティブな側面をとらえていったりするようなことが、過度に情報化された「健康」の仕組みの閉塞感を突破する術となるかもしれません。

 また後者については、医学的尺度がとらえきれない患者さんの変化について、おそらくは専門家よりも患者さん自身が先に自覚する感覚に耳を澄ませることや、「これが健康に向かううえでは望ましい方向性だ」ということに一目散にならず、むしろ道草をすることに積極的な意味を見出していくことなどが大切な価値となる時代になっていくのではないかと私は想像しています。

この記事をシェアする: