うまくいかないからだとこころ

AI/IoT時代の健康と医療

2019.04.26
“病院”は未来の“ディストピア”の予見空間かもしれない
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エムスリー会員の皆様はじめまして。東京は駒沢にある国立病院機構東京医療センターという病院で内科医をしている尾藤誠司と言います。今回から、何回かにわたって「AI/IoT時代の医療」についてのエッセイを担当させていただくことになりました。よろしくお願いします。

 以下は私がなぜこのエッセイを担当することになったのかという理由でもありますので最初に申し上げておきたいことなのですが、今回の連載は私が現在関与している研究プロジェクトと企画連動したものになっています。科学技術振興機構(JST)の一部門である社会技術研究開発センター(RISTEX)によって統括されている研究開発領域で「人と情報のエコシステム」というプロジェクトが現在進行していて、尾藤がその中の一つである「内省と対話によって変容し続ける自己に関するヘルスケアからの提案(以下『内省と対話PJ』とします)」という研究開発プロジェクトのプロジェクトリーダーを担当させていただいています。「人と情報のエコシステム」については以下のウェブサイトをご参照ください。

http://www.jst.go.jp/ristex/hite/index.html

 この研究開発領域では、決して遠くない将来に、人工知能(以下AIとします)あるいはInternet of Thing (以下IoTとします)などの情報技術が発展し、それらの技術が、人間が住む社会の中に急速に入り込んできたとき、今よりも便利で豊かな社会が作られるという期待がある一方で、逆に人や社会が幸せな生活を送るうえで厄介な問題が発生するかもしれないという懸念が指摘されています。発達した技術によってユートピアのような社会が来ると思っていたらそれは実は悲惨な社会だった、というようなシナリオで過去にもいくつも小説や映画が作られており、それらは”ディストピア小説”などと言われています。社会に利益をもたらすために開発される情報技術であるAIやIoTが、ディストピア社会に加担してしまうようなことがなく、人間社会と健全に共進していくために、今から準備しておくべきことはどんなことなのか、という問いに答えるようなノウハウを生み出すことがこの研究開発領域のテーマになっています。

<未来の”ディストピア”の予見空間としての”病院”>

 私自身はむしろ医者としてはかなり「文系頭」だと自分では認識していて、AI/IoTを含めたコンピューターサイエンスについてはほぼ素人です。一方で、医療という世界は、様々な情報あるいは知識によって支えられており、それら情報や知識が人や社会にどのような影響があるかということについて、身をもって考えさせられるような現場で毎日働いているといってもよいかと思っています。私が担当している「内省と対話PJ」で私たちがやろうとしていることのひとつは、現時点での病院の環境や病院が持っているカルチャーがまさに未来のAI/IoT社会のそれらを体現しているのではないか、という仮説をもとに、病院という場で登場する「情報」が持つパワーや、それによって翻弄される患者もしくは医療者の状況を切り取り解説していくことです。

 情報技術の発達は現在でも商業サービスのいたるところに取り入れられています。回転ずしの皿の底には特殊なチップが装備されていて、そのチップを通してリアルタイムに膨大なデータが蓄積され解析されます。そのデータ解析の結果から、回転ずしを提供する会社はどのタイミングでどのような商品をベルトに載せていくかについての知識を得ることができます。翻って、病院という場は、情報が取り扱われる場としてはいくつか特徴的な性質を持っていると思っています。

 大きな特徴の一つは、収集され分析される情報のほとんどが、人間自身のプライバシーに関する情報であるということです。病院で患者さんが遭遇する情報の多くは、まさに患者さん自身に関する個人情報です。それも、その情報の多くは患者さんにとってみれば人に知られたくない、いわば自身の「弱み」に関する情報です。血液検査の数値や診断に関するアセスメント情報のほとんどは、個人にとっては自分自身の健康問題に関するのっぴきならない情報である一方で、病歴からバイタルサイン、さらには自分自身も見たことがない内臓の画像情報に至るまで、自らのプライバシー情報は医療を通じて瞬く間に収集され、解析されていきます。自分の知らないところで自分が持つ問題や個性、あるいは修正の方向性が情報によって解き明かされていくという場が病院であるといえます。

 第二に、病院における情報は、基本的に「知る」ことがためらわれるような、人を不安に陥れるような情報であふれかえっているという特徴です。「あなたは5年以内に心筋梗塞になる可能性がこれだけある」とか「あなたのがんに対して、抗がん剤はこれだけ効果があるかもしれないがこれだけの有害事象も起こりうる」というような情報は、そもそも知って楽しくなる情報ではありません。悩ましいのは、その情報は通常重要な決断と結びついているため、知りたくなくても意思決定を行ううえでは知る必要がある、というジレンマが発生します。だからこそ情報が提供されたときに立ち上がる軋轢を避けるためにしばしば情報はそれを持っている側によって操作された上、提供されることが少なからずあります。

 第三には、医療における情報は基本的に「科学的に立証された客観的事実」として扱われるということです。病気を診断し患者に病名をつけることや、ある病気を持った患者に対して有効と考えられる治療を行う際に、私たち医療者は病態生理をベースとした知識や臨床試験から得られたエビデンスをその裏付けとしています。それらの裏付けが「科学に基づいた客観的な事実」であったとき、当事者にとってその事実を否定することは困難です。「あなたは糖尿病です」と医師に言われたとき、当事者は「いや、私は糖尿病ではない」という主張は「反対意見」ではなく「誤認」として理解されます。

 以上のような病院における情報の扱われ方、そして、情報が人に与える影響をみると、現在の病院という環境は、未来のAI/ IoTが実装された社会が持つであろう様々な恩恵とともに、情報が人や社会を惑わせる厄介な問題も描き出しているような気が私にはするのです。

<医療における「情報化」は人に何を与えるのか?>

 医学は、人間が人生を通して体験する様々な困難や苦悩を「情報化」することで発展してきた学問です。そして、すべてとは言いませんが、現在の社会において人の健康の多くの部分が「医学=人の人生の記述を情報化することで生まれた知識の体系」によってささえられています。人間の人生を情報化することによって、人間や人間社会は医学から様々な恩恵を受けてきました。実際、この仕組みが導入されたことによって、たくさんの人が人生に起きる様々な厄介ごとを回避することができています。しかしながら、ある個人の人生を情報化することは、よいことばかりを生むわけではないだろうというのが私が持っている仮説です。

 たとえば、AI/IoTのような情報技術が発達することによって、情報はテーラーメイド化が進むといわれています。例えば「高齢者の腎障害のない糖尿病の患者に対する治療戦略」から、「75-78歳で女性でXXXの遺伝子を持ちXXXの併存疾患があり血圧がXXX程度でXXXのような生活様式をとっていて$#%&”‘$%(以下∞)の糖尿病の患者に対する治療戦略」として、個人のプロファイルが限りなく細かな形で情報化されたうえでベストなプランが提案される時代が来るでしょう。それによって、確かに特定の患者さん個人にぴったり合った治療戦略が提案されることが実現されるかもしれません。しかしながら、そのような推奨を拒否することは、当事者にとってとても大きなハードルになるかもしれません。「あなたにとってベストに違いないこの医療を、あなたはなぜ受けないのか?」と喉元に迫られているような気がします。

 このシリーズエッセイの前半では、現在の高度に情報化された医療の世界を半分内側、半分外側から眺めながら、来るべき未来の情報社会を前に、個人や社会、あるいは医療がどのようなことについて気にしておくべきか、ということについて私が考えていることを書きたいと考えています。その中で、「内省と対話PJ」で行った様々な調査研究などの成果の一部を「研究ノート」としても紹介していこうかと考えています。後半では、AI/IoT時代が到来した近未来の医療がどうなっていくのかについて想像しながら、その時代における医療者や患者の役割、新たに出現する問題点とその解決などについて私が考えていることを書きたいと考えています。ご笑納いただけると大変うれしいです。

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