うまくいかないからだとこころ

AI/IoT時代の健康と医療

2019.06.17
研究ノート:エビデンスとナラティヴはたぶん分けられない―「コンフリクト体験」調査分析より―
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今回からしばらくは、私が「内省と対話」プロジェクトで行っているいくつかの事業の中から「AI社会と医療」と関連が深いものをいくつかピックアップして紹介したいと考えています。このプロジェクトでは、複数の調査やタスクグループ会議などを行いながら、AI/IoT時代のヘルスケアのかたちを模索し、さらにそこで必要となるであろうケアの技法を明らかにしていく、という方法論をとっています。

「内省と対話」プロジェクトの中で時間をかけた仕事に、実際に重い病気で手術を受けたり、慢性疾患に対する長期的な薬剤の服用を開始したりする決断を体験された方々に対し、その体験談を語っていただくインタビュー調査というものがありました。この体験談の主題となるテーマは「コンフリクト(葛藤・対立)」です。すなわち、自分自身の健康に関する重大な決断を行う際、どこかの時点で自分と他者との間における考え方のコンフリクト(対立)、あるいは自分自身の中で湧き上がるジレンマがもたらすコンフリクト(葛藤)が、個々の「決断の物語」の中には必ず立ち現れてくるのですが、この「コンフリクト」に着目することで、人間にとっての情報、あるいは“知るということ”について解き明かしていく、というのがこの調査分析の主な目的です。

この調査で得られたテキストからは実に様々な理論を紡ぎだすことができそうなのですが、本稿で取り扱うのは、臨床上の重要な決断の場面において立ち現れる「エビデンス」と「ナラティヴ」の特性に関する考察です。

 

ナラティヴの中のエビデンス

EBM(Evidence Based Medicine、科学的根拠に基づいた医療)という言葉があります。これは、一般的な認識としては、よくデザインされた科学論文によって明らかになっている治療の効果などに関する情報をよく吟味した上で実際の臨床上の決断に反映させる一連の手法のことを意味しています。

一方で、NBM(Narrative Based Medicine、物語に基づいた医療)という言葉があります。この言葉は、患者は一人一人のストーリーの中で生きており、その中で医療と関わり医療に関する決断をすることを理解しながらケアの提供について考えることを意味している、というのが一般的な理解だと思います。そして、この二つのコンセプトは「EBM vs NBM」のようにあたかもお互いが交わることのない考え方のように認識されています。しかしながら、私自身の臨床医としての経験と、今回実施した「内省と対話」プロジェクトのインタビュー調査とを参照したとき、そもそも「エビデンス」と「ナラティヴ」をあたかも「リンゴとミカン」のように分別することはできないだろうという気がしてきました。この点について具体的な事例の中で解説します。

例えば、うつ病に罹患した方が医師から抗うつ剤の内服を提案された際、患者自身の中で薬を飲み始めるかどうかについての内的葛藤が湧き上がります。薬を飲むかどうかを決断する際にその当事者は「患者」として様々なことを考え、様々な行動をするのですが、その行動の中でも大きなものの一つが「決断の決め手となる裏づけ探し」です。この「裏づけ」には他者性の高いものと自己性の高いものがあります。

他者性の高いものとして代表的なものは、医師から提供される、薬剤の有効性に関する情報です。この「医師から提供される、薬剤の有効性に関する情報」が、すなわち医療専門職の間で「エビデンス」と呼ばれているものです。しかしながら、その「エビデンス」が患者に与える影響は、患者の置かれた状況や患者と担当医との関係性などによって大きく変わってきます。「情報」はあたかも客観性が高く、時間や環境に左右されないような印象がありますが、患者の中でそれは「情報」のままであることはできません。情報が「認識」や「価値」に変換される時、患者の持っている文脈や立場、環境がそれらに与える影響はとても大きなものであると考えられます。

次に、自己性の高い「裏づけ」としては、過去の自分自身の体験などが典型的なものかもしれません。例えば、昔抑うつ状態になったときに医師から抗うつ剤をいくつも処方され、薬漬けのような状態になってしまいひどい目にあった、というような体験は、現在の決断を行ううえでとても強い「裏づけ」となることがあります。実際今回のインタビュー調査においても、患者自らあるいは肉親の過去の体験などは、重要な意思決定においてとても重要な「エビデンス」として患者に認識されていました。体験の語りそのものはある文脈とともにある患者の「ナラティヴ」ではあるのですが、患者にとっては医師から教わる薬のメカニズムや効果よりも、過去自分自身や家族に降りかかった幸福や災難こそが、“evident” な情報として患者の心に刻まれているのです。

エビデンスの中のナラティヴ

一方、あたかも「ナラティヴ」の介在する隙間がなさそうな「エビデンス」の中にもナラティヴの要素はあります。例えば、私たち医師は臨床において常に病態生理の整合性を意識しながら診断や治療を行っています。そして、病態生理というものは、あたかも常に特定の理論を当てはめると特定のプロセスが発動し特定の結果に至るかのように私たちは考えています。ある特定の感染症に対して、最も効果が高いと考えられる抗菌薬を選択するのも、ある臓器に感染する原因菌のエコロジーを理解したうえでのことです。

しかし、それは本当でしょうか?ほぼ確実に、ミクロの世界においても物語は湧き上がっています。ある臓器という「戦場」において、迫りくる敵(バイキン)に対してそれらを追い出す、あるいはせん滅するために人間の免疫系は必死に戦っています。その戦いに対して、抗菌薬は槍や弓の役割をしてくれているのかもしれません。ここには明らかに文脈があります。槍や弓である抗菌薬の選択がいまいちであったとしても、戦力としての免疫系に底力があるならその戦いには勝利するでしょうし、いくら強力な武器が与えられたとしても、戦隊に余力がなかったり内紛が起きていたりしたときにはうまく戦えないかもしれません。

細胞のレベルでナラティヴは存在しているのです。『はたらく細胞』というテレビアニメ化もされた漫画は、個体の中で繰り広げられるナラティヴを鮮やかに描いている秀逸な作品です。そして、そのような、体の中で起きる様々な物語の結果を「実証」として集約し、統計情報にまとめたものが「クリニカル・エビデンス」として医療者の間で重宝されているものなのかもしれません。

どのような状況において、何を大切な決断の「裏づけ」とするかは、決断にかかわっている人間それぞれが持つ文脈に大きく依存しています。臨床試験の結果を重く受け取るということや、「痛み」などの主観的なアウトカムよりも「余命」や「将来の血管イベントの発生頻度」を重んじるマインドを持つということ自体も、医療の専門家が共通に持っている文脈であるといえます。

そのように考えると、「ナラティヴ=患者の体験、エビデンス=科学に基づいた根拠」という整理で意思決定を語ること自体に無理があるような気がしてきます。臨床試験から得られた余命に与える効果について医師が患者に対して熱心に語り掛けていることは「ナラティヴ」ということができますし、そのような語り掛けにもかかわらず、患者が自分の両親に降りかかった災難を思い出して医師の推奨にNOを表明するとき、それは患者が患者の人生の履歴に刻まれた「エビデンス」に基づいてNOを表明していると考えることができます。

クラシックなインフォームド・コンセントは、意思決定に資する情報は基本専門家側にあり、適切な選択肢や選択肢がもたらす利益/不利益に関する情報を患者が専門家から受け取ることで、患者は専門家の提案に対し承認、あるいは拒否を行うことがその基本コンセプトです。この考え方は、決断をする人間に何もゆらぎが生じないことを前提とした意思決定のモデルだと私は考えます。

しかしながら、大きなコンフリクトが生じる決断を前にゆらぎが生じない人間などいないと私は考えます。決断の「裏づけ」となるものは時間が止まったゆらぎのない情報ばかりではありません。むしろ、関係性の中で決断に関与する者たちが持つ、不確かな「言い分」の投げ掛け合いこそが、コンフリクトの中で共通の景色を見ることを可能にするプロセスなのだと私は考えています。

コンフリクトの物語で立ち現れる言葉を見つめなおす

もしある文脈を持った人のある「語り」を「エビデンス的な特性」と「ナラティヴ的な特性」に分けるとしたら、それは「誰から発語された語りなのか?」ということではなく、その「語り」の内容に視座と揺らぎがどれほどあるのか、という視点で分けることの方がよいのかもしれません。

整地され、情報化された言葉は時間という軸が排除され、あたかもそこには揺らぎがなくなっているように見えます。そのような言葉を「情報」と我々は呼んでいるのかもしれません。しかしながら、情報化された言葉だからこそ推し量りやすく頼りがいがあるという側面は確かに存在します。

一方で、人間はそもそも常に変容する存在であり、他者との関係性の中でしか語ることができない存在でもあります。そして、異なる視座を持つ者同士が出会ったとき、その関係性において発せられる揺らぎのある言葉にこそ、決断の「裏づけ」を見出すことができるとも考えます。

近い未来、決断を前に悩んでいる人に対して様々なメッセージが「根拠」として提示されることになるでしょう。それらのメッセージは、文脈を切り取られて情報化した要素と、文脈をもって立ち上がったナラティヴの要素の両方を必ず身にまとっているはずです。ヘルスケアの世界は、まさに情報化された言葉と、ドラマの中で湧き上がってきた言葉が複雑に混在する世界です。近未来社会の姿を想像したとき、人間の生活が情報に隷属してしまうようなことがないようにする一つのレッスンは、エビデンス的なものとナラティヴ的なものが複雑に混在する現代の病院のような環境において、「すべての言葉はその両方の特性を有している」という視座に立ちながら、自分たち医療者が患者に語り掛ける言葉や、患者が医療者に語り掛ける言葉の持つ意味について考え続けることなのかもしれません。

(イラスト:おおえさき)

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