うまくいかないからだとこころ

AI/IoT時代の健康と医療

2019.07.15
研究ノート:情報化される個人の現在と未来【前編】ー不確実性とともに個人を「診断」し、個人の未来を「予言」すること
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前回(『研究ノート:エビデンスとナラティヴはたぶん分けられない―「コンフリクト体験」調査分析より―』)から引き続き、私が「内省と対話」プロジェクトで行っているいくつかの事業の中から「AI社会と医療」と関連が深いものをいくつかピックアップして紹介したいと考えています。このプロジェクトでは、複数の調査やタスクグループ会議などを行いながら、AI/IoT時代のヘルスケアのかたちを模索し、さらにそこで必要となるであろうケアの技法を明らかにしていく、という方法論をとっています。

「精緻な不確実性」の時代

本プロジェクトの大きな目的の一つに、自分自身に関する精緻な情報を知ったとき、人の心に何が起きるのかということを理論化することがありました。そして、心への作用はその後の人の行動にどのような影響を及ぼすのか、ということも同時に理論化の対象としていました。自分自身のことについて精緻に知らされる、という環境は、将来のAI/IoT実装社会において避けることができない環境なのかもしれません。実際、もはやアマゾンのデータベースは私自身よりも私の「好み」についてずっと詳しく理論化し、分類していると思いますし、Facebookのデータベースは私自身よりもずっと私の「体調と感情と行動の関連」について詳しく言語化できると思います。

ある日Facebookから突然お知らせが来て「bitoseijiさん、今あなたが友人として信頼しているXXXさんとこれからも付き合い続けると、きっとあなたは大きな金銭トラブルに巻き込まれ破たんするだろう。その可能性は66.4%である。破たんの可能性が65%を超えた時点でFacebookはあなたにこの将来のイベント発生の可能性について通知することを義務として認識した。Facebookはあなたに対し、XXXさんとの関係を現時点で断絶することを強く勧める。しかしながらその判断はbitoseijiさんに委ねられ、Facebookは判断自体に責任を有しない」みたいなメッセージが届く時代が来ないとも限りません。

ある日突然そんなメッセージを受け取ったとき、私はどんな気持ちになるでしょうか?まあ間違いなく混乱するでしょう。そして、Facebookが発信したその予測の真偽について問いたくなるでしょう。しかしその問いの答えはおそらく「真」であることを受け入れざるを得ない自分に気づくと思います。なぜならば「66.4%の確率で破たんする」という予測は「精緻な不確実性」という形で提示されている情報ですから。そして、「精緻な不確実性」を持った情報を知ったうえで、私は重大な決断を行う場面にいやおうなく立たされるのです。

「精緻な不確実性」のケース・スタディ

以上のような話はなんだかSFのような世界の話のように聞こえますが、私はそうは思いません。なぜなら、現在の診察室で行われていることは似たようなことだからです。医療が対象としているターゲットは、「患者」としてやってくる依頼者そのものです。そして、患者自身が全く認識していない患者の状況を情報化し、可視化したうえで詳細に「今のあなたはこんな状況なんですよ」と提示したうえ、「このままだと将来こんなことになっちゃうかもしれませんよ。絶対なるのかと言われれば絶対とは言えませんが、ただほかの人よりは明らかに可能性が高いです」と将来の事象を予測することで商売を成立させているのが医療というサービスの特徴です。

私たちは、医療が持っている「主体の情報化」という特質と「精緻な不確実性の提示」という特質に着目しながら、ケース・スタディを通じて「自分自身に関する精緻な情報を知ったとき、人の心に何が起きるのか。その後の人の行動にどう影響を及ぼすのか?」ということについて理論化を行いました。例えば以下のようなケースです。

”軽い気持ちで遺伝子診断を受けた健康な30代の女性。夫、娘と3人で暮らしている。遺伝子検査の結果、「50歳までに乳がんに罹患する可能性27-46%、65歳までに卵巣がんに罹患する可能性7%-32%」との報告を受けた。家族、かかりつけ医、専門医に相談したところ、それぞれ異なる意見かつあいまいな意見だった。その中で、家族関係にもぎこちなさが生まれるようになった”

”会社経営をしていたが昨年リタイヤした囲碁好きの喫煙習慣のある60代男性。血圧が気になり病院を受診したところ様々な検査が行われ、その結果「高血圧」「動脈硬化症」「慢性腎臓病」「高コレステロール血症」と診断された。外来担当医からは「大変危険な状態で、このままでは脳梗塞や心筋梗塞になってしまう。すぐに治療を始めないといけない」と言われた。それらを知り、今までの自分が「怠惰な生活をしていたツケが回ってきた」と自覚し始めた。その後彼の生活は大きく変化した”

議論を進めていくうちに、個人が自分の知らない自分自身のことを他者に診断され、情報化され、その後の自分に降りかかる将来(特に、不都合な将来)を「精緻な不確実性」をもって予測されることによって発生する心の動きのプロセスがわかってきました。その心的プロセスについては次回詳しく言及したいと思いますが、端的に言うならば、人の現在と将来を情報化することによって人の心に「呪い」がかかる、というプロセスです。

占い師としての医療者

この世界には「将来このままだとあなたに災いがもたらされるかもしれない」という「予言」で生計をたてている人たちがいます。そのひとつは宗教家で、ひとつは占い師で、そしてもうひとつは医者です。クライアントの将来を予測する職業にはほかに証券マンや結婚コンサルタントなどがいますが「このままだと大変なことになるかも」とクライアントに対して言ってくる人たちの代表は今挙げた人たちだと思います。この言葉は実に強力です。自分自身が予測できない将来の災いを他人から予測されるというのは、実に恐ろしいことなのです。私は、将来の災いに関する予測は、告げられたものを強く拘束する「呪い」だと思っています。

「このままだと将来災いが起きるかもしれない」という予言が人の心を束縛する「呪い」としてうまく機能するには、おそらく予測だけでは不十分のようです。たとえば、「将来」の前に「現在」の状況を「診断する」というプロセスが必要です。診断によって個人がある程度十把一絡げにカテゴリー化されることで、「わたしはわたし」という視点を持ちにくくさせるという力学を働かせることができます。私は全く詳しくないですが、占いの世界でも「あなたは木星人」とかの「診断」プロセスがどこかにあるような気がします。現在の状況が「診断」され、患者個人が特定のカテゴリーに分けられ、情報化されることで、未来の「降りかかるかもしれない災い」までの道のりを合理的に説明することが可能になるのです。

厄除けとしての薬

特に医療の仕組みは、患者に対して強い「呪い」をかける3つの巧妙な仕組みを持っていると私は考えます。ひとつは、将来降りかかる可能性のある災いはあくまでも「可能性」であって、絶対に降りかかるとも降りかからないとも言えないけれども、ほかの人に比べるとそのリスクは高い、という言説を構造として持っているということです。これが不確実性の提示です。さらには、高度に情報化された現代の医療では「再発率の平均はXX%です」というように、「起きるかもしれないが起きないかもしれない」というあいまいな表現ではなく、精緻な形で不確実性を提示することが可能です。

2つ目には、医療はこの災いについて提示する際に「災いを避けうる方法がある」こともセットで提示するということです。「避けうる方法」のひとつは患者自身が生活を変えることですし、もうひとつは医療者が患者に与える処方的な介入です。すなわち、この提示がなされた際、患者は医療者から「私からの援助を受け入れるのか、それとも自分で何とかするのか」という選択肢を提示されます。

内科系の疾患を患った患者にとって、医師から内服開始を提示される薬は「厄除け」のような意味を持っています。さらには、定期的で継続的に処方される薬はただの厄除けではなく、「医師によって助けられている自分」という自己を無意識に形成していく厄介な媒体にもなっているのです。もちろん薬も含めた医師からのすべての「厄除け」の効果には限界があり、多くのものは「厄除け」効果も大したものではない上に副作用まであります。しかし、「将来不確実に起こりうる災い」に対し「限界はあるがその災いを回避できるかもしれな」方法を専門家から提示されるという複合した不確実性の図式が、むしろ自分自身の冷静な決断を惑わせる作用を持っているのかもしれません。

3つ目は、以上の事柄が「科学的根拠」に裏打ちされている、ということです。現在の医療に関する情報、そして、将来の個人と社会に関する情報が「科学的根拠に明確に裏打ちされている」にもかかわらず「基本的には不確実な予測である」という相反する特性を持つことで、その情報を知った人は自分がもつあいまいな状況を受け入れざるを得ないことになります。そして、降りかかる災難に関する「明確な不確実さ」を持つ情報とともに選択肢を提示されたとき、人は、人と情報との関係が持つ本質的な矛盾によってある特定の感情を生み出します。平たく言うならばそれは一種の不安感情です。

本タイトルの後半(次回稿)では、「精緻な不確実性」を持った「将来の私自身の災難に関する情報」を個人が知ったとき、人の心にどのような作用が起こるのか、医療は、その心のダイナミクスをどのように利用しているのか、ということについて、さらには、「知ることによって発生する不安感情」を人はどのように手なずけることができそうか、ということについて考察したいと思います。

(イラスト:おおえさき)

 

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