うまくいかないからだとこころ

AI/IoT時代の健康と医療

2019.08.15
研究ノート:情報化される個人の現在と未来【後編】―:自己変容と不安、情報との関係
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今回は「情報化される個人の現在と未来」に関する研究ノートの後編です。後編を始める前に、まずは前編を簡単におさらいしたいと思います。前編で私は以下のことに言及しました。

  • 未来の情報社会において、人は「明確な不確実さ」を持つ情報とともに決断を迫られる毎日を送らないといけないかもしれない。そして、現在の医療の世界はまさに「明確な不確実さ」を持つ情報が強制的に提示され、決断を迫られる状況がある。
  • そのようなタフな状況下において、医療は主体(患者)を「呪い」にかけるからくりを持っている。その第一は、現状のリスクと将来の重大な健康不利益を一本の線で結び付けることで「予言」を成立させるというからくり、第二は「予言」を現実のものとさせないための「厄除け」を医療提供者側は準備しており、その厄除けを見せることで患者を操作していくというからくり、第三は、その「予言」も「厄除けも」あくまでも不確実性の中で機能しているものであるため、「呪い」をかけた側は、その「呪い」によって将来どのような事象が起きたとしてもある程度責任を回避できる、というからくり、である。
  • そのようなからくりがうまく機能する上では、どうやら人が「明確な不確実さ」を持つ情報に触れてしまったときにおこる心のダイナミクスが大きく関係しているようだ。

前編ではそもそも「呪い」とは何を意味するのかについてあまり説明していませんでした。それについてここで少し説明を加えたいと思います。

「呪われる」状況とは、そもそも自由であった主体が他のだれかから強制的にルールを発動され、そのルールの中でしか行動する、あるいは思考することができなくなってしまうような状況を指しています。さらには、ひとたび呪われてしまったその主体は、その呪いを解くために人生の多くを費やし始めます。ただ自由を束縛されるだけではなく、他者から行動や思考をコントロールされるところに呪いの恐ろしさがあると私は思っています。「前編」において述べた、現在を診断し「このままだと大変なことになる」と未来を予言することと同時に「しかし、ここに厄除けがある。この厄除けを身につけていれば、あなたの災難は避けられるかもしれない」という提示がなされることで、患者が「ひどい健康イベントが自分の身に降りかからないこと」を人生の中心に置くような価値観に変えてしまう医療者の介入を、私は「呪い」という言葉で表現しました。

さて、私は前編で「降りかかる災難に関する『明確な不確実さ』を持つ情報とともに選択肢を提示されたとき、人は、人と情報との関係が持つ本質的な矛盾によってある特定の感情を生み出します。平たく言うならばそれは一種の不安感情です」と書きました。本稿では、その「不安感情」の立ち現れるメカニズムについて考察したいと思います。

体験によって「今までの自分」が変容すること

診察室という場に患者として招かれた主体は、その時には「わたし」でしたが、医療者から自分も知らなかった「わたし」自身に関する情報を得たことによって、診察室を出るときには「病気のわたし」あるいは「このままだと将来大変なことになるかもしれないわたし」に変容してしまっています。しかしながらそれは「わたし」にとっては通常受け入れがたいことです。なぜなら、「わたし」は「病気のわたし」や「このままだと大変なことになるかもしれないわたし」に変わることを望んで診察室に呼び入れられたわけではなく、ただ「わたし」に関する知識を専門家から得て、「もっと楽なわたし」へ変わることを望んでいたからです。ただ、残念ながら変容してしまった「わたし」はもう過去の「わたし」に戻ることはできません。過去のままの「わたし」でいようとする変容してしまった「わたし」の中で起きる軋轢が、不安感情の発現だと私は仮説を立てました。

以下に、不安感情が立ち現れるメカニズムについての仮説を図示しました。ここで重要なことは「人は体験を通じて常に変容せざるを得ない」という前提です。ある体験 ‒その体験は、例えば階段を踏み外したとか、マンガを読んだとかの日常的に訪れる些細な体験も含めた体験です‒ を通じて、人は必ず多かれ少なかれ何らかの影響を受け、その影響によって体験前の自己から変容しているのです。その変容の中身は4つ、それは「何が見え、聴こえているのか(理解のステージ)」「見え、聴こえたものをどのようにとらえているのか(認識のステージ)」「とらえたものについてどのような価値づけを行っているのか(価値のステージ)」そして「その価値づけをする上での基準は何か(規範のステージ)」の4つと私は整理しています(もっと大雑把でももっと細かくてもいいのかもしれません)。

そしてそれら「ものの見かた、とらえかた、考え方、その基準」が変わるということは、人にとっては必ずしも心地よい状況ではありません。なぜなら、変容によって得るものもあれば捨てるものもあるからです。私は、人はその変化に対する恐怖感を無意識に感じているのだと思います。図で記した「SELF A1」から「SELF A2」に自己変容が起きるとき、その変容に待ったをかけようとする自己がいます。そして変容に対するブレーキが自己によって踏まれるときに立ち現れる軋みの副産物が不安感情なのだと私はとらえています。

体験によって「今までの自分」がそうでなくなってしまうとき、何の抵抗もなくその変化を受け入れることはとても困難なことです。例えば、何気ない態度振る舞いの中で目の前の人をひどく傷つけてしまうようなことがあったとき、人は動揺し、不安になります。おそらくそれは、今まで自分が認識していた「何気ない言葉」についての「認識」を変えなければならないことを無意識にも自覚し、それを自己の中に取り込もうとしているとき、今までの認識パタンを持つ自分が変容してしまう自分を受け入れきれないために変容のブレーキがかかる。ここに出現する軋轢が不安感情の正体です。「このことを伝えると患者が不安になるだけだから、あえて伝えないようにしよう」とたまに医師が言うのは的を射ていると思います。なぜなら、医師の言葉によって患者が変容するとき、少なくとも医師の中では「この言葉を聞いた後、患者は明らかに別の何かに変容する。そして、その別の何かはより不幸せな何かである」という認識をしているからです。

「主体の情報化」のメカニズム

では、診察室において医師から「わたし」自身が知らなかった「わたし」自身の厄介な現在あるいは未来について告げられ、それによって「病気のわたし」「このままだと大変なことになるかもしれないわたし」にいやおうなく変容されようとしている「わたし」は、その変容を冷静に受け入れることができるでしょうか?それは無理だと思います。意識的にも無意識的にも、そこで主体が持つ欲求は「知る前のわたしのままでいたい」という欲求です。このかなえられない欲求によって不安感情は立ち上がるのですが、その時まさに患者は医療者から「呪い」をかけられます。その呪いの呪文は「もしこれからより不幸な『わたし』への変容を止めたいのであれば、私が用意したレールに乗りなさい」という呪文です。この時に提示されるのが、「安心」を獲得する切符としての「情報」です。例えば「この薬を飲むことで将来あなたが脳梗塞になる割合をOO%下げることができる」というような情報です。

この時、不安感情とともにいる「わたし」はこの情報に飲み込まれます。このプロセスを私は「主体の情報化」と呼んでいます。すなわち「わたし」は「このままだと大変なことになるかもしれないわたし」に変容する代わりに(本当はもうそのように変容しているのですが)、「この薬を飲むことで、『知ってしまう』前のわたしを保っているわたし」(図でいうと“PSEUDO SELF A1”)であると思い込もうとする。これが、主体の「安心に向かう姿勢」であり「主体の情報化」のメカニズムだというのが、現在私が考えていることです。安心獲得の希求と情報とはきわめて親和性が高いのです。そこに共通しているのは「本当は変容しているものをあたかも止めたかのようにする」ということです。本来は変容し続ける「わたし」をそもそも「止まっている」存在である情報に委ねてしまうことでその主体性を手放し、さらに医療者の拵えたレールに乗ることで「安心」の暗示にかかるというのが、診察で起こっていることなのだと思います。

医学が持つ「人の不調(医療の世界では「病気」)は客観的存在として説明が可能である」というカルチャーと、主体の情報化、そして「安心」に向かおうとする意志との親和性は極めて高いため、診察室に存在する医療者も含めたすべての主体は「安心」に向かう仕組みに容易にはまり込んでしまいます。そして、「安心・安全」を追い求めすぎるカルチャーは、極端な「静止」を生みます。極端な例は、認知症を持つ高齢入院患者さんに対する過剰(と私は認識しています)な身体抑制です。身体抑制は、医療者側の不安を防止するために行われています。自分がまきこまれる、自分がコントロールできない何か(例えば、転倒転落事象)が起こることで、自分たちが変容してしまうことを医療者たちは知っています。計画通りのことだけが計画通りに進んでいて、あとことは「止まっている」ことが安心の要件なのです。私は、今の医療が「安心」の獲得を求めすぎていることで、かえっておかしなことになっている現状は一種のディストピア (注)だと認識しています。

次稿では、「自分自身について知ってしまうこと」によって変わってしまう自分の変容プロセスの中で立ち上がる不安に対して、いつ誰が何をできるか、ということについて考察したいと思います。

(注)ディストピア
「平等で秩序正しく、貧困や紛争もない理想的な社会に見えるが、実態は徹底的な管理・統制が敷かれ、自由も外見のみであったり、人としての尊厳や人間性がどこかで否定されている」(Wikipediaより)ような社会のこと。しばしばSF映画の舞台として描かれる。

イラスト:おおえさき

 

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