うまくいかないからだとこころ

AI/IoT時代の健康と医療

2019.12.20
AI/IoT時代のセルフケア【前編】―因果モデルと原因制御の方法論を超えていく
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注:本稿および次稿では、「脳」も含めたからだを「からだ」と表記し、「脳」を含めないからだを「身体(からだ)」と表記します。

因果モデルで説明がつかない健康問題

東京西南部で診療していると、1:1の因果関係で説明がつかない体調不良の人がめちゃくちゃ多いことを日々実感しています。そして、ここ数年は飛躍的に多い気がします。代表的なのは慢性の体の痛み、耳鳴りやめまい、慢性の下痢などを患っている方の受診です。さらには、一つの症状だけでなく多様症状が出ている人も少なくありません。これらの辛い症状を持つまさに「患いびと」としての「患者」は、生活が破たんして大概辛い目にあっているのですが、一方でそのような患者の方々に対して、現在の医療は気の利いたサービスを提供できていません。

気の利いたサービスができていないという要素はいくつもあるのですが、一つは、それらの方々に対して専門家側に“気の利いた手札”がない、というのは大きいと思います。そしてもう一つは、それらの患者の方々が持つからだの不調に対して、現在の医療者は古いパラダイムでのアプローチを続けていることが大きな要素だと私は考えています。ここで私が言う「古いアプローチ」とは、端的に表現するなら「因果モデル」「脳による身体の支配」そして、「制御・抑制・削除の方法論」の3つです。そして、これら3つはお互いに深く関連しています。

典型例としては、次のようなケースがあります。

ケース1. あちこちの身体の痛みと外出時の腹痛が続いている30代女性。内科では「検査で何も問題ない。あなたは正常だ」と言われ、その後「体ではなくて心の問題だ」といわれ精神科や心療内科に紹介される。別の施設では「線維筋痛症かもしれない」と言われ、専門内科に紹介される。心療内科では「うつの傾向はあるが、まずは線維筋痛症の専門家にもかかっているならそちらを落ち着かせる事」といわれ、専門内科では「うつが落ち着くことがまずは肝要」といわれてわけがわからない。

ケース2. 顔面けいれんが数カ月以上続き、人前に出ることが困難になっている40代男性。MRIで血管の走行異常があり「これが原因かもしれないが手術は難しい」と言われる。ボツリヌス毒素の注射を勧められ治療を受けた。しばらくけいれんは治まっていたが、数か月後また同じような状況になっている。症状を抑えるために多数の薬剤を内服している。

私自身も内科医として以上のようなケースに毎週の様に遭遇し、そのような困難を持つ患者さんを前にする度に自分の無力感に打ちひしがれます。そして、臨床専門家としてたくさんのケースに遭遇しているうち、きっとこれは現代の都市社会の構造が個体にスキャンされているのではないか、という仮説が私の中に芽生え始めました。現代の都市に生きるホモ・サピエンスの個体構造は、現代社会そのもののように見えるのです。そのキーワードはまさに「因果モデル」「システムによる現場の支配」そして、「制御・抑制・削除の方法論」です。

因果モデルで“具合が悪いこと”を説明することの限界

おそらくここ100年程度の世界の発展は、「因果モデル」「システムによる現場の支配」「制御・抑制・削除の方法論」が支えていたのだと私は思っています。ある事象を見つめる時、その事象を可能な限り構造化・細分化し、その上でそこに起きていることの因果関係を明らかにしていく分析的な手法によって、文明は発展してきましたし、サイエンスとしての医学は発展してきました。サイエンスとしての医学の発展に伴い、臨床における専門家の手札も飛躍的に多くなりました。一方で、この視点あるいは方法論には副作用のようなものがあったようです。それは、目の前に起きているすべてのものごとに対して「なぜこうなっているのか?」というまなざしをむけ、そこに分析的なアプローチを持ち込んでいくことで、複雑なものを複雑なまま、全体として受け入れようとするまなざしが小さくなる、ということです。

「知恵の樹の実システム」(『ポスト安心希求社会での個人と社会のあり方【中編】「知る」ことと「自己変容」との関係』参照)を得たときに人の脳が持った特性がいくつかあると私は理解しているのですが、その一つが現在起こっている具合が悪い事象に対して「なぜ」と問う習性です。この世の中では、「なぜ」という分析的な問いの答えが見つからないさまざまなことがたくさん発生します。しかし、分析的な社会ではそこにも「なぜ」の答えを出し、その「なぜ」のもとを制御・抑制・削除することで具合の悪さをなくしていくことが、具合の悪さに向き合う王道のアプローチとされます。しかしながら、「なぜ」の答えが出ないような不具合が発生したとき、人は辛さのスパイラルにはまってしまうのです。慢性の痛みや、説明のつかないからだの不具合で受診する人たちの多くを苦しめているのが、「なぜ」という問いの答えが見つからないことです。「なぜお腹が痛くなってしまうのか?」「なぜ顔がひくひくしてしまうのか?」という問いに対して、だれもが納得する客観的な説明ができないことの方がおそらくは多いのですが、現代の社会ではそれでもその状況に「なぜ」を見出そうとします。

もちろん臨床においては全身倦怠感や息切れの「主たる原因」が心筋症だったりCOPDだったりすることはたくさんあります。「あなたの具合が悪いのはXXXのせいです」 と分析的かつシンプルに答えるための手札を現代医学はたくさん有しているのです。ただ、今までの医学が「人の体調不良は基本的に因果関係で説明できる」という前提でやってきた中で、その前提に準拠したアプローチでは歯が立たなくなってきている健康の問題がとてもたくさん存在していることに我々専門家は気付いているはずです。そして、それでも「どうして私はこんなにも辛いのですか?」と訴える患者を前に、専門家は「それは○○のせいです」という答えを常に用意しないといけないと考えますし、当事者である患者自身も「なぜ」に対するシンプルで分析的な答えを専門家から提供されることを期待します。

その時にしばしばその答えとして用いられるのは、「自分(患者)の○○のせい」ということです。○○には、例えば「遺伝子」「生活習慣」「体質」「職場環境」などが入ります。そして、その「○○」の内容によっては患者をさらに追い込んでいくことになります。ここで注意する必要があることは、「なぜ」の理由として「自分の○○」という因果関係が結ばれるという点です。もし自分の中に理由があるということが立証されたとき、患者には逃げ場がなくなります。それは、このシリーズで何度も出てきた「呪い」のようなものなのです。自分の中に埋め込まれてしまっている何かしらの不具合の原因がはっきりしたとき、それを自分の力で何とかすることのしんどさを患者は感じるでしょう。だからこそ、そこで専門家からの支配を自ら望む選択をしてしまうのではないかと私は推察します。その極端な事例が「自分の遺伝子」によって起きている健康不具合を自分ではどうすることもできない。だから高度な技術を持つ専門家に、「自分の遺伝子」に対する介入を委ねていく、というようなストーリーです。

もう一つ、「自分の○○のせい」の「○○」の内容の中で、大きく患者を縛り付けるものが「精神」かもしれません。「精神」という抽象的な概念は、健康不具合の原因を作っている張本人としてやり玉にあげるにはうってつけの存在なのです。体の不具合の原因が「細菌」(自分以外)のせいでも「異物」(自分以外)のせいでも「自分の中に生えた新生物」のせいでも「自分の免疫」のせいでもない時、かなりの割合で「自分の精神」は因果関係説明のための標的となります。「あなたの耳鳴りが止まらないのはあなたの精神の問題かもしれません」という言葉は、因果モデルに当てはまる説得力のある言葉のように聞こえます。そして、多くの場合この言葉の中にはある程度真実が含まれています。しかしながら、私はここでこの言葉に含まれる真実は「ある程度」にしか過ぎないという点を主張したいと思います。なぜなら、因果モデルと制御による問題解決の方法論は、この「ある程度」を医療提供者側にも困難を抱える当事者側にも過剰に受け取らせる力を持っているからです。精神安定剤を数種類使用しているのにいっこうに耳鳴りがよくならないとき、この方法論の中ではどんどん原因制御のための薬剤が上乗せされていく傾向が生まれます。

11月2

“いろいろ”と“たまたま”

疫学データなどの分析をしていると「回帰式」というのがしばしば出てきます。回帰式とは、ある結果をいくつかの原因のセットで説明するための数学的な方程式を指すのですが、その際に「説明力」という数字が算出されます。説明力とは、それらいくつかの原因のセットによって、結果の何パーセントくらいを説明できるか、という数字なのですが、説明力が30%くらいある場合は因果関係をかなり強く見出せている、と理解することが多いです。これを逆に見ると、残り70%は知りうる原因では結果を予測できない、ということなのです。

では、ある結果が回帰する残り70%は何でできているのかというと、それは「その他いろいろ」と「たまたま」なのです。さらには、結果の説明に寄与する原因のセットの中の一つは、ごく限られた説明可能な事象のうちのさらに一部にしかすぎません。

きっと、世の中に起きていることのほとんどは「その他いろいろ」と「たまたま」に回帰するのだと私は思っています。そして、今までのヘルスケアは、この「その他いろいろ」と「たまたま」について取り扱うことを避けてきました。その理由の一つは、ヘルスケアのような将来のイベントを予測し、そのイベントを回避するために先回りをすることをミッションとするような世界においては「あなたの調子が悪い原因はいろいろです」とか「あなたががんになったのは、たまたまだ」というようなことを言うことはとても抵抗があることなのです。さらには、「その他いろいろ」と「たまたま」を取り扱ったとしても、ケア提供者側にそれをきちんと取り扱うための手札がないからです。

不具合には必ず原因があり、その原因を削除することで不具合がなくなるという考え方は、すなわち「原因削除によって問題は解決されるのだ」という考えに他なりません。ところが、悲しい事に現実には健康不具合の原因はいろいろであり、不具合発生のドミナント要因は見つからず問題は解決しません。だからこそ、因果関係の前提で取り扱われる患者もまたその土俵の中で悩む事になるのです。「一体何が原因なのか?」と。そして、だいたいその悩みは患者を追い詰めるばかりで利益を生みません。近未来のヘルスケア世界においては、本来複雑なものをシンプルな因果モデルの中だけでとらえるのではなく、複雑なまま全体として取り扱っていく新たなパラダイムの方法論が必要だと私は考えています。

後半では、因果モデルと制御の論理を超えていくためのセルフケアの手法として、「脱脳コントロールの理論」と「やりくりするからだ」について解説したいと思います。

(イラスト:おおえさき)

 
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